Column 新宿コラム

新宿歴史コラム vol.1 新宿の発祥

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WRITER: 深井 正宏

零.【はじめに】

■新宿の時を歩く

Think‼Shinjukuは新宿の今を知り、未来を創りたいとの想いから立ち上げたのだが、

始めてみると、驚くほどに新宿のことを知らないことに気がつく。

 

かつて、ある建築学の先生にお会いした時、都市開発で大切なことは、

その土地のアイデンティティを深く知ることであると言われたことがある。

よく言えば「多様」で、悪く言えば「雑多」な、捉えどころのないこの街のアイデンティティとは何だろうか?

 

歴史は未来を知るために学ぶと言われるように、

新宿を考えるためには、歴史を知ることも助けになるのではないかと考え、

新宿がたどってきた時間を散歩してみたいと思う。

 

 

壱.【新宿の発祥】

■家康が江戸にやって来た!

 1590年豊臣秀吉は小田原城に籠城する北条氏を滅亡させ全国を平定。この時に徳川家康は秀吉から、北条氏の所領だった関東へ移封を命じられ、居城を江戸に定めた。秀吉の死後、家康は関ヶ原の合戦で西軍に勝利すると、1603年江戸に幕府を開く。

 家康は江戸幕府を開くと、江戸の都市づくりに着手し様々な土木工事を進めた。その一つが街道整備で、1604年に日本橋を起点とした五街道が定められ、この時に甲州街道が誕生する。その翌年に江戸城の工事に使う石灰を運ぶための道として、現在の青梅街道が整備された。当初は成木往還(なりきおうかん)と呼ばれ、主産地だった成木との間を結ぶ道だったが、後に甲府まで伸びると甲州街道の脇街道(バイパス)として、また多摩地区の農産物を江戸へ運ぶ輸送路として利用され発展した。甲州街道と青梅街道をそれぞれを江戸に向かって進むと、江戸に入る手前で2つの街道は合流する。その合流点が新宿追分(現在伊勢丹がある新宿3丁目交差点)で、江戸時代における新宿地区発展の拠点となっていく。

 

▽写真:江戸切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷絵図」部分(国立国会図書館所蔵)

左から伸びている上の道が青梅街道、下の道が甲州街道で、合流している場所が新宿追分(現在の新宿3丁目交差点。現在は十字路になっているが、当時は丁字路だった)。そこから右が内藤新宿で、沿道に町屋が並び、宿場を過ぎた右端に四谷大木戸があった。左端に見える森のような緑は熊野神社。

 

 

■四谷の大木戸を知っていますか?

 四谷大木戸は甲州街道の四谷付近(現在の四谷4丁目交差点)に設けられた、甲州街道を往来する人馬を検問するための門である。1616年につくられ1792年に廃止された。甲州街道や青梅街道を旅してきた人たちにとっては江戸へ入るための扉で、宿場の旅籠で長旅の労を癒した翌朝に、ここを通ると江戸に入ったことを実感したのであろう。現在、史跡となるものは何も残されていないが、廃止された後もこの地は大木戸と呼ばれ続け、新宿御苑の四谷側出入口である「大木戸門」や外苑西通りにある交差点「大木戸坂下」などの名前だけが残されている。  

 また、大木戸は後に開削される玉川上水の終着点でもあった。玉川上水は江戸の急激な人口増加による飲料水不足に対応するため、1653年に築かれた人工の流水路である。多摩川から取水された水が四谷大木戸まで全長43㎞の距離を流れていた。大木戸付近には「水番所」と呼ばれる管理施設が設けられ、玉川上水で運ばれてきた水を江戸市中へ配水していた。現在、水番所のあった場所には新宿区の施設である「四谷区民センター」が建っており、その中には東京都水道局が事務所を構えている。

 

▽写真:江戸名所図会「四谷大木戸」(新宿歴史博物館所蔵)

 

 

■内藤氏の屋敷地にできた内藤新宿

 甲州街道と青梅街道の合流点である新宿追分(新宿3丁目)から四谷大木戸(四谷4丁目)の間に設けられた宿場が内藤新宿である。1697年に浅草の名主である高松喜兵衛と商人たちが幕府に新たな宿場の設置を願い出て、翌年5600両を上納することを条件に設置が許可された。幕府は五街道の整備にともなって街道沿いに宿場を置いていた。宿場は日本橋を起点に概ね2里(8㎞)ごとに置かれたが、甲州街道だけは江戸を出て最初の宿場が高井戸宿で、日本橋から約4里(16㎞)と遠かった。宿場の本来の目的は幕府や各藩のいわゆる御用の人や物資の運搬を支えるための制度で、馬や人足などを常備する義務を負っていた。そのため距離の長い日本橋~高井戸間では、通行量の増加にともなって高井戸宿の負担が重くなっていたことが新たな宿場開設の理由となった。日本橋を出発して最初の宿場である品川宿(東海道)、板橋宿(中山道)、千住宿(日光街道・奥州街道)と内藤新宿(甲州街道)は江戸四宿と呼ばれた。いずれも現在の23区内に位置しているが、当時は江戸の郊外である。内藤氏の屋敷地に新たに造られた新しい宿場で内藤新宿と名付けられ、これが「新宿」の名の由来となった。

 それでは内藤氏とは誰なのか。徳川家康が江戸へ入府する際に、内藤清成という武将が先遣役を務め甲州街道沿いに陣を敷いた。清成は家康の直参で、先陣を果たした功により四谷から代々木にかけて20万余坪もの広い敷地を賜ったとされている。屋敷地と言われているが、北条氏滅亡後の不安定な関東の政情下で、江戸城西方の防衛と治安を任された、いわば江戸の門番的な役割を担ったのだろう。内藤新宿を設けるために、内藤氏は拝領地の一部を幕府に返上した。そのために内藤新宿と名付けられた経緯もあるが、宿場ができる以前から内藤宿と呼ばれていたようである。江戸幕府が終焉した後に内藤家の屋敷の大部分は明治政府に接収されて大蔵省の農事試験場となった。これが後に新宿御苑となる。

 

▽写真:内藤新宿の再現模型(新宿歴史博物館所蔵)

 

 

■宿場の廃止命令と復活

 内藤新宿では順調に旅籠屋や茶屋が増え、賑わいを増していったが、1718年に突然幕府から廃止の命令を受ける。宿場が設けられてから20年しか経っていない。廃止となった表向きの理由は「甲州への旅人の数が少なくなったから」ということだが、実際には遊女商売による風紀の乱れが目に余るというのが本当の理由であるらしい。時代背景を考えると、廃止される2年前に徳川吉宗が8代目の将軍に就いており、翌年には大岡越前が江戸町奉行に着任したことで、有名な享保の改革が推進されている。この改革の基本は緊縮財政で質素倹約が奨励され、遊女商売の取り締まりが強化されていく。幕府が公認している遊郭は浅草の吉原だけで、それ以外での遊女商売は非合法である。特に江戸四宿は宿場というよりも遊里として歓楽街化し多くの遊女を抱えていたが、それまでは黙認されていた。これが享保の改革で問題視され、内藤新宿が見せしめとして廃止させられたと言われている。

 享保の改革以降、他の宿場も厳しい制限を受けていたが、1764年に大幅に緩和される。その理由は宿場経営がひっ迫していたことと、これを救済すべき幕府も財政難で対処できなかったことにある。幕府としては宿場を維持する必要があり、大義を曲げて遊女商売の制限を緩和せざるを得なくなったということであろう。この動きを受けて内藤新宿は幕府に復活の請願をし、これが受け入れられて1772年に再興された。以降、江戸時代の終焉まで内藤新宿は郊外の遊里として繁栄を続けた。現在の歓楽街新宿の原点がここにある。

 

今回の新宿のはなしコラムは、以上です。

いかがでしたでしょうか。

新宿の未来を考えるにあたり、やはり過去を振り返りしっかりと理解することは、とても刺激的且つ奥が深いことだと、改めて気付かされます。

次回は、「近代都市における新宿」へと話が進んでいきます。

ご期待ください。

 

 

<参考文献>

・「新宿区成立70周年記念誌:新宿彩(いろどり)物語」 新宿区/2017年

・「新宿学」 戸沼幸一編著/紀伊國屋書店/2013年

・「新宿の迷宮を歩く」 橋口敏男/平凡社/2019年

<参考サイト>

・新宿区「新宿区史年表」

 http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/

・新宿区立歴史博物館

 https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

・東京都水道局「玉川上水」「東京水道新世紀構想」

 https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/pr/tamagawa/rekishi.html

・環境省「国民公園>新宿御苑」

 https://www.env.go.jp/garden/shinjukugyoen/1_intro/history.html

・一般財団法人国民公園協会「新宿御苑」

 https://fng.or.jp/shinjuku/

・LIFULL HOME’S PRESS

 https://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00621/

・TokyoRent.jp「TokyoRentコラム」

 https://tokyorent.jp/column/46/

・nippon.com「変貌し続ける大都市、TOKYO」

 https://www.nippon.com/ja/views/b08802/

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