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新宿歴史コラム vol.3 関東大震災と東京の壊滅

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WRITER: 深井 正宏

新宿歴史コラムvol.2はこちらをご覧ください。

 

参. 【関東大震災と東京の壊滅

 今、私たちが「震災」と聞くと東日本大震災や阪神淡路大震災を思い起こす人が多いと思うが、太平洋戦争前に生まれた人たちは「震災」と言えば1923年(大正12)に起きた関東大震災を指していた。明治以降の首都圏を襲った唯一の巨大地震であり、地震規模はM7.9と推定されている。東京・横浜を中心に広範な被害が発生し、死者10万5千名、全壊または全焼した住宅は21万棟にも上る未曽有の大惨事をもたらした

 

■大正12年9月1日 正午2分前

 内閣府が2006年に発行した「1923関東大震災」という報告書は、震災発生当日の情景を描写した以下の文章から始めている。

 

  1923(大正12)年9月1日、その日はちょうど二百十日の前日であった。折しも前のに 

 九州の有明海に上陸した台風は勢力を弱めながら日本海側を通過し、また秩父地方でも小規

 模な低気圧が東に向かって進んでいた。そのため東京付近でも未明にはや激しい風雨を見た 

 ので、厄日を気づかい始めた者もいたようである。そうしているうちに、明け方から午前10

 時頃には雨もすっかり上がっていた。曇りがちで蒸し暑く、それに加えて時々帽子を飛ばすよ 

 うな突風も吹いていた。しかし、それでも皆は平穏な初秋の正午を迎えようとしていた。

  その日は土曜日で勤務も半日であった。そのため、会社勤めのものはそろそろ帰り支度を始 

 めていたであろう。談笑していた者もいたかも知れない。(…途中略…)小学校は二学期の始

 業式が終わり、生徒たちは既に帰宅していた。先生も新学期の準備のために職員会議を終え、

 くつろいでいたところだったろう。家庭では子供たちや、もうすぐ帰ってくる一家の主のため

 に、昼食の支度で忙しい最中であったに違いない。

  正午を迎えるほんの2分前、関東地震は発生した。はじめは緩慢な揺れが続いていたが、そ

 のうちにだんだん大きくなり、ついには立っていられないほどの激しい揺れに襲われた。首都

 圏とその周辺を直撃したこの巨大地震は、10万棟を超える家屋を一瞬のうちに倒潰させた。

 また、山間部では崖崩れや山津波などの土砂災害、沿岸部では津波被害を発生させた。更に台

 所の裸火が火元となって多くの火災が発生し、東京や横浜では台風の余波による強風に煽られ

 て数時間後には大規模な延焼火災に拡大した。

  これらの火災、建物倒潰、土砂災害、津波のよる犠牲者は、実に10万人を超える。また被 

 害総額は、地震による直接的な損失だけで55億円あるいは100億円以上ともいわれ、当時の国

 家予算の4~7倍という途方もない額であったと推定されている。正午前のほんの一瞬の自然 

 現象が、わが国のその後の進路を左右するほどの大震災を生んだのである。

(内閣府/災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923関東大震災 第1篇第1章/2006.7」より引用)

 

 

■焼失した東京

 この地震による被害の特徴は、人的被害の65%が旧東京市内に集中している点と、火災による被害が大きかった点である。東京市内の家屋焼失率は70%以上に達していた。被害が甚大になった大きな理由は当時の住環境にある。まず、当時の東京市は、過密都市と言われる現在の東京よりもはるかに過密であったことがあげられる。15区からなる東京市の人口は217万人で現在の23区の4分の1程度だが、面積は現在の8分の1に過ぎず、逆算すると人口密度は現在の約2倍に相当する。

 

▽参考資料:東京市15区の地区別人口(東京都公文書館資料より抜粋)

1923年に関東大震災が起きているので、表中1920年は震災の3年前にあたる。

 

 

▽参考資料:震災当時の東京府と東京市(東京都公文書館HPより転載)

北多摩郡、南多摩郡、西多摩郡は、1893年(明治26)に神奈川県から東京府へ編入された。

それまでは、東京市15区に北豊島郡、豊多摩郡、荏原郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡を加えた地域が東京府であった。

 

 

▽参考資料:東京市15区と拡大された35区(東京都公文書館HPより転載)

1932年(昭和7)に、北豊島郡、豊多摩郡、荏原郡、南足立郡、南葛飾郡の5郡が東京市に編入され35区となった。

太線の内側が15区で、外側が新市域として加わった20区。35区の市域範囲は、ほぼ現在の23区にあたる。

 

 

■被害が大きかった東部エリアと小さかった西部エリア

 当時の家屋はすべて木造で住宅の質も総じて低かった。現在のような耐火建材はなく、下町地域の多くは江戸時代の長屋と変わらないような家に住んでいた。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、江戸時代には何度も大火に見舞われており、明暦の大火(1657年)では江戸の街の3分の2を焼失している。大正期になっても火災に対して脆弱な都市であることは変わらなかった。このような低質な家屋が密集している所で火事が起きれば延焼はまぬがれない。不運なことに、台風の影響で風も強い上に、地震の発生時刻が午前11時58分と多くの家庭が昼食の準備に追われている最中で、使用していた竈(かまど)や七輪などから発生した火災と家屋の倒壊が重なったことで、同時多発的な火災を発生させることになった。

 東京市は西側の武蔵野台地と東側の低地帯にまたがるように位置しており、現在のJR京浜東北線近辺を境に東西の地層が大きく異なっている。特に被害が大きかったのは現在の江東区・墨田区など旧東京市の東側に位置していた低地帯地域で、軟弱な地盤であったため特に揺れが激しく多数の家屋損壊を招いた。また、人口が集中し家屋の過密度が高かったことが火災の多発や延焼拡大の要因になった。台地上にあって地盤の固い西側は揺れも東側ほどの激しさはなく、人口の集中度も低かったため比較的被害は小さかった。

 

▽参考資料:東京における地区別死者・行方不明者数

 (出典:内閣府/災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1923関東大震災 第一篇第一章」2006.7より抜粋、表は筆者作成)

表の数値は当時の内務省公表値。後の研究による発表値とは異なっており、さらに大きな被災者数も推定されている。本所区における突出した死者・行方不明者数は同区内の旧陸軍被服工場跡地に避難していた約3万8千人が火災旋風によって焼死したことによる。東京に次いで被害が大きかったのは神奈川県で死者・行方不明者数は3万2千人に達している。その大半が横浜市であった。

 

 

 新宿の被害は全体に比べれば軽微であったとされている。その理由として前述したように地盤が固い台地であったため揺れが比較的小さかったことと、当時の新宿周辺はまだまだ田舎だったため、住宅の密集度がそれほど高くなかったことがあげられる。それでも、甲州街道沿いにあった2代目の新宿駅舎を始め、駅前の商店など主だった建物は焼失し、四谷や牛込など家屋が多い地域では大火となり多数の死者を出している。関東大震災は新宿にも多くの被害をもたらしたが復興のスピードは早く、街が蘇ると姿を一変させ大発展をとげることになった。

 

 

 

今回の新宿のはなしコラムは、以上です。

いかがでしたでしょうか。

現在の新宿の大発展を語るうえで、関東大震災の話を抜きにしては語れません。

大きく変貌するきっかけ、劇的に反映するきっかけとして重要な関東大震災に関してお話いたしました。

次回は、「震災後の復興する新宿」へと話を進めていきます。

ご期待ください。

 

 

<参考文献>

・「新宿区史」(区成立50周年記念)/新宿区/1998年

・「新宿学」 戸沼幸一編著/紀伊國屋書店/2013年

・「東京のれきし 道路・鉄道、まちづくり編」/双葉社/2014年

・「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書1923関東大震災」/内閣府/2006年

・「広報 ぼうさい」/内閣府/2007年

<参考サイト>

・新宿区「新宿区史年表」

 http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/

・新宿区立歴史博物館

 https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

・国立公文書館 アジア歴史資料センター

 https://www.jacar.go.jp/modernjapan/index.html

・東京都公文書館「江戸東京を知る」

 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/07edo_tokyo.htm

・奥州市立後藤新平記念館

 http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/indexb.html

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