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新宿歴史コラム vol.4 震災復興と都市改造

  • #東京改造計画
  • #東京の人口移動
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  • #近代都市新宿
  • #新宿の歴史
  • #新宿
WRITER: 深井 正宏

 

新宿歴史コラムvol.3はこちらをご覧ください。

 

肆. 【震災復興と都市改造

■震災後の人口移動

 関東大震災は大惨事をもたらしたが、復興のスピードは早く、特に新宿は震災以降に劇的な大発展をとげる事になる。その理由として、人々が被害の大きかった低地の下町を嫌って、地盤の固い山の手や郊外に移動したからだと言われている。震災が移動のきっかけになったことは確かだが、東側地域を嫌って西側地域に避難するように移動した事だけをもって、その後の新宿発展の理由と考えるのは、やや短絡的に過ぎると思われる。

 下記グラフは震災前後における当時の東京の人口を現在の23区に置き換えて推移を示したものである。震災(大正11年)の後に人口が減少したのは千代田区・中央区・港区・台東区(15区制における麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・下谷区・浅草区に該当)で、当時の東京の中心部である。一方で品川区や大田区をはじめとする、当時家屋の少なかった市域外の人口が急増していることがわかる。しかし、急増したのは必ずしも西側地域だけではなく、墨田区(当時の本所区)・江東区(当時の深川区)や荒川区(当時は市域外)など地盤の弱い低地帯と言われる地域も増加している。これを見る限りでは東側地域を嫌って西側地域に避難するように移動したという理由は説得力に欠ける。特に墨田区と江東区は震災被害の大きかった地域であったにも関わらず人口は増えている。このことは、人口が東側の下町地域から西側地域に移動したのではなく、都心部から郊外へ向けてドーナツ状に広がったと考えた方が自然と思われる。

 

▽参考資料:大正9年~昭和5年 東京の人口推移(総務庁統計局「国勢調査」を元に、表は筆者作成)

 

 

 

 では、なぜ新宿が関東大震災を機に発展したのか。その理由を探ろうとする際に新宿だけを見ていると理解ができない。新宿だけではなく渋谷や池袋なども大きく発展しているからである。震災後に変貌を遂げたのは東京全体であり、何よりこの頃は日本全体にとって大きな転換を迎えた時代である。震災は東京激変へのトリガーになったと言える。

 

 

■膨張する東京

 関東大震災の以前より東京市内は過密状態となっており、1920年(震災の3年前)時点で217万人あった人口は、さらに増加を加速させていた。

明治以降の経済発展によって人口流入が加速していた東京は、既に15区の市域を超えて市街化が進んでいる状態であった。つまり震災以前から、東京は郊外に向けて拡大が始まっていたのである。下表の人口比較をすると、12年間における増加率の高さと、特に浅草区・本所区・下谷区・深川区(現在の台東区・墨田区・江東区)などの東側地域(下町地域)における集中度が窺える。

 

▽参考資料:東京市15区の人口推移と増加率(東京都公文書館資料より抜粋、表は筆者作成)

 

 

■東京改造計画

 この人口問題に対して、行政府は決して手をこまねいていたわけではなく、むしろ喫緊の課題として捉えていた。1917年(大正6)に「都市研究会」が発足し、内務省に「救済事業調査会」ができると不良住宅地区改良などの社会政策を始めている。また、翌年には都市計画課が、さらに内務省と東京市に社会局が設置されるなど活発な動きを見せている。1919年(大正8)に都市計画法、市街地建築物法、道路法及び道路構造令などが制定されると、都市や住宅に関する法令が相次いで制定・施行され急速に法整備が進んだ。

 これらの動きの中心にいたのが、1916年(大正5)に内務大臣に就任した後藤新平である。後藤は医師から衛生官僚に転じ、さらに貴族院議員となった大物政治家の一人で、鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣などを歴任した。内務大臣在任中に発足させたのが「都市研究会」で自ら会長になっている。1920年(大正9)には東京市長に就任し、翌年「東京市政新要綱」という都市計画案を発表した。これは別名「8億円計画」と呼ばれる都市改造計画案で、国家予算が約14億円という時代に、途方もない規模の計画であった。

 

▽写真:後藤新平(国立国会図書館蔵)

 

 この計画発表の6年前の1914年(大正3)に東海道線の新たな起点駅として東京駅が開業している。辰野金吾の設計による駅舎は、2012年に建築当時の姿を再現した耐震・復元工事が完成したことで大いに話題になったことは記憶に新しい。この設計時の鉄道院総裁が後藤で、日本の近代化のシンボルとなる駅にするよう命じて設計させた結果、壮麗さと威厳を備えたあの駅舎ができた。東京駅も8億円計画も後藤新平の、東京をパリやロンドンに比するような偉大な帝都にしたいという野望が反映されている。後藤の発想は壮大過ぎて「大風呂敷」と揶揄されることもあった。しかし日清・日露戦争に勝利し、また第一次大戦を経て日本が急速に国力を増していたこの時代に、日本を先進欧米諸国に負けない国にしたいという思いを抱いていた政治家や官僚は多かったはずである。

 東京駅が他の駅と異なるのは、壮麗さだけではない。駅舎は皇居と正面で向かい合うように建てられ、駅前には大きな広場があり、皇居との間には建物がない。皇居全体から東京駅までの空間に、ここが帝都の中心であるという意味合いを持たせている。この周りに大きなビジネス街を配し、住宅地は都市部から郊外へ移動させるというのが8億円計画の構想である。計画には欧米都市並みの道路拡張や運河の整備、新たな港湾の建設、公園の建設など広範な都市計画が盛り込まれていた。しかしこの「8億円計画」が実行されることはなかった。そして計画が頓挫したまま、発表の2年後に関東大震災は起きた。

 

 

■東京を近代都市に替えた復興事業

 震災が起きる1週間前に首相の加藤友三郎が死去し、8月28日に山本権兵衛に首相の大命が下ったが組閣は難航し、後藤も入閣を拒んでいた。つまり震災時点で内閣は空白だったことになる。入閣を固辞していた後藤だったが、震災が発生した翌朝に山本の所に駆けつけると急遽入閣要請を受け内務大臣に就任する。震災によって東京が壊滅した事態を、後藤は自らが描いた東京改造計画を実行する絶好の機会と捉えたようである。早速に想を練って「帝都復興根本策」を記すと、欧米式の最新の都市計画を採用して我が国に相応しき新都をつくるべきと論じている。内務省内に「帝都復興院」が設置されると、後藤が内務大臣を兼任して総裁となり復興の指揮を執ることとなった。帝都復興院が策定した復興計画案は約13億円という予算で閣議に付されたが、紆余曲折を経て結局5.7億円まで縮小された。この頃は大戦バブルが崩壊して景気低迷に陥っており、現実的な予算規模に着地したとも言える。大幅な縮小で後藤としては不服であったと思われるが、それでも国家予算の半分に近い大規模なものである。後藤が考えた近代都市のビジョンも少なからず反映され、この復興計画によって、住宅・道路・公園・学校などが整備され、現在の東京の骨格となっている。昭和通りや靖国通りなどはこの時に造られた(または拡張された)道路である。そしてこれらの復興事業は、住宅を都心から郊外へ移動させる流れを加速させた。

 1930年(昭和5)3月に復興事業がほぼ完了したとされ「帝都復興祭」が執り行われている。震災が起きてから7年後の事であるから、非常に早い復興である。しかし後藤はその前年にこの世を去り、この復興祭に立ち会うことはなかった。

 

 

今回の新宿のはなしコラムは、以上です。

いかがでしたでしょうか。

新宿を含む東京は、素早く復興した歴史を持っており、震災を契機に、近代都市へと大転換を図ったことが分かりました。

次回は、より詳しく「復興の中身と新宿」へと話を進めていきます。

ご期待ください。

 

 

<参考文献>

・「新宿区史」(区成立50周年記念)/新宿区/1998年

・「新宿学」 戸沼幸一編著/紀伊國屋書店/2013年

・「東京のれきし 道路・鉄道、まちづくり編」/双葉社/2014年

・「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書1923関東大震災」/内閣府/2006年

・「広報 ぼうさい」/内閣府/2007年

<参考サイト>

・新宿区「新宿区史年表」

 http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/

・新宿区立歴史博物館

 https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

・国立公文書館 アジア歴史資料センター

 https://www.jacar.go.jp/modernjapan/index.html

・東京都公文書館「江戸東京を知る」

 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/07edo_tokyo.htm

・奥州市立後藤新平記念館

 http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/indexb.html

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