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新宿歴史コラム vol.6 新宿の劇的変貌

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WRITER: 深井 正宏

 

新宿歴史コラムvol.5はこちらをご覧ください。

 

陸. 【新宿の劇的変貌

 

 都市の発展は、経済成長×人口増×交通等インフラ整備のそれぞれが不可分な関係にあり、どうコントロールして発展させるかは、時の政権や行政の腕の見せ所ともいえる。日本においては文明開化以降、明治政府の主導によって国家や都市(特に帝都東京)は形づくられたてきた。しかし大正期の前後になると政府の政策や思惑とはかかわりのない所で、新しい都市の形が生まれてくる。ターミナル駅を核とした商業都市である。江戸時代に宿場を中心として新しい集落が生まれたように、近代以降は駅を中心とした街が形成され、とりわけ大きなターミナル駅の周囲には商業集積による大きな繁華街が生まれた。新宿は規模・質ともにその代表例である。

 

■新宿を代表する老舗「高野、中村屋、紀伊國屋」

 関東大震災の以前から新宿駅前にあって、今も老舗として広く知られているのは新宿高野、新宿中村屋、紀伊國屋書店であろう。業種は違うものの共通している点があるとすれば、当時の生活様式や文化の変化を的確に読み、それを発信者としてリードしてきたことであろう。そのことが現在まで続くポジションを確立したと言える。

 新宿高野は、新宿駅の開設と同じ年の1885年(明治18)に店を構えたので歴史は古い。当初は繭の仲買や古道具販売を主業とするかたわらで果実を売っていたが、1900年(明治33)に果実専門店となった。2年後にマスクメロンの販売を開始すると、フルーツ人気の高まりと進物需要に応えることで東京有数の高級果実店へと発展した。

 新宿中村屋は1901年(明治34)に本郷で創業したパン屋の支店を1907年(明治40)新宿に出店したことから始まった。菓子パンの代表格であるアンパンは銀座木村屋の創案だが、その双璧をなすクリームパンは新宿中村屋の創案である。1927年(昭和2)にレストランを開設すると日本初のインドカレーの提供を始めた(正式名称は「中村屋純印度式カリー」)。製法を伝えたのはインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースで、日本に亡命してきたボースを匿った縁による。この頃の中村屋には多くの文筆家や文化人が集まるようになっていた。中村屋ではインドカレーを初めて発売した記念日6月12日を「恋と革命のインドカリーの日」と制定している。

 紀伊國屋書店は1927年(昭和2)に創業した。創業者の田辺茂一は新宿駅前に多くあった薪炭問屋の一つに生まれ、22歳の時に現在の場所で書店を始めた。同人誌や文芸誌・文学書・学術書などを中心とし、他店とは一線を画する書店であった。2階にギャラリーを併設すると、ここで様々な展覧会を催しながら多くの文筆家や文化人に交流の場を提供し、集まった文筆家とともに文芸誌を発行するなど、書店経営をしながら積極的に文化発信を行っていた。紀伊國屋書店本店はル・コルビュジエに師事した故前川國男の設計である(1964年竣工)。前川國男はモダニズム建築の旗手として戦後の日本建築界をリードし、優れた建築物を数多く手がけた人物である。

 

■3代目新宿駅

 関東大震災は新宿を激変させた。

 震災後の発展を象徴する建物の一つに1925年(大正14)にできた3代目新宿駅がある。木造の2代目新宿駅が焼失したため新築したものであるが、その際に甲州街道沿い(現在の東南口付近)から青梅街道沿いに移転した。現在ルミネエストがある場所である。この場所に移転したことが、その後の新宿の発展に大きな影響を及ぼした。駅から出た人の流れはそのまま新宿追分まで続き、青梅街道(現新宿通り)が新宿の街の中心動線になることを決定づけたのである。また新しい駅舎は鉄筋コンクリート造2階建ての近代的な建築物で、まだ場末の雰囲気が残り木造の建物しかない所に登場した白亜の駅舎は威容を放ち、新生新宿の顔となった。この駅舎は1964年(昭和39)に現在の駅舎に建て替えられるまで使用された。

 

▽写真:大正14年にできた3代目新宿駅。写真は昭和35年頃のもの。(新宿歴史博物館所蔵)

 

 

■デパートの街となった新宿

 新しい新宿駅に次いで、震災後の発展をもたらした大きな動きはデパートの出店である。

 新宿のデパート第1号は1925年(大正14)に新宿追分(新宿3丁目交差点)にできた「ほてい屋百貨店」である。ほてい屋は四谷で創業した布袋屋呉服店が進出したものであるが、業績が悪化し後に伊勢丹と合併した。

 同じ年、駅前の現アルタの場所に三越デパートが開店した。三越はこれが初めての新宿出店ではなく、その2年前の震災直後に三越マーケットを追分付近に開店させている。これが新宿における最初のデパートとする見方もあるが、小規模なのでほてい屋が新宿で最初のデパートとされている。文字通り駅前デパートとして出店した三越は、新駅舎の移転を見越しての開店と思われるが、実は三越は読み違えたとも言われている。一つは人が駅前にとどまらず新宿通りへと流れていったことで、もう一つは予想を超えた人が新宿に集まったことである。そのため、5年後の1930年(昭和5)には、早くも新宿通り沿いに地上8階建ての豪華な店舗を新築して移転させた。現在のビックロの建物である。元の駅前店舗は「食品のデパート二幸」に業態を変えて営業を続けた。

 1927年(昭和2)に京王電気軌道が新宿追分に社屋を建設し、その1階を基点駅とすると、上の2階から5階に新宿松屋デパートが開店した。初のターミナルデパートだったが業績が振るわず長くは続かなかった(この松屋は銀座松屋・浅草松屋との関係はない)。

 伊勢丹は1886年(明治19)に神田で創業した呉服商「伊勢屋丹治呉服店」を前身とする。1933年(昭和8年)にほてい屋のすぐ隣に伊勢丹本店として開業した。伊勢丹は開店の2年後にほてい屋を買収したが、新宿に進出するにあたり最初からほてい屋の買収を考えていたとも言われている。すぐ隣に密着するように同じようなビルを建て、合併するとすぐに2つのビルを合体させて現在に続く巨大百貨店を誕生させたからである。したがって現在の伊勢丹本店は旧伊勢丹と旧ほてい屋の建物を一つにしたものである。伊勢丹の登場は新宿通りへの人の吸引力を一層高めることとなった。

 

▽写真:新宿駅西口から線路を超えて東口を望む(新宿歴史博物館所蔵)

左手前が二幸(現アルタ)、奥が伊勢丹(昭和16年頃)

 

 新宿駅から新宿追分の間に大きな4つのデパートができたが、他にも追分に三福というデパートもあり、駅前の二幸を合わせると6つのデパートがひしめいたことになる。当時このような林立状態は銀座や日本橋にもなく、そのため新宿はデパートの街と言われるようになった。この頃のデパートは富裕層向けの高級品店ではなく、急増する新しいタイプの中産階級(つまり郊外から都心に通勤する中流サラリーマン)を対象としたもので、彼らの家庭の生活需要に応えるものであった。こうして新宿は短期間のうちに山の手随一の商業地へと変貌していった。新宿駅の乗降客が日本一となったのは伊勢丹が出店する2年前のことである。

 

■武蔵野館と新宿の映画文化

 百貨店と並んで新宿に賑わいをもたらした代表的な施設として映画館がある。

 新宿はデパートの街であるとともに映画館の街でもあった。新宿で最初にできた映画館は1907年(明治42)内藤新宿の中頃にある太宗寺という寺の中にできた大幸館である。次いでできたのが1916年(大正5)に四谷大木戸付近にできた大国座という芝居小屋で、どちらも四谷寄りで新宿の映画館とは言い難い立地である。この頃はまだ新宿の中心が新宿追分よりも東側にあったことがうかがえる。

 そう言った意味で新宿にできた最初の本格的な映画館は1920年(大正9)に開館した武蔵野館である。地元の商店主が資金を出し合ってできた700席を擁する大きな映画館で、新宿を代表する映画館として現在も営業している。武蔵野館の開館を皮切りに新宿には次々と映画館が誕生した。この頃新宿東口周辺で開館した主な映画館を順に列挙すると以下のようなものがある。

 

 ・1920年(大正9)      武蔵野館(洋画封切)

 ・1924年(大正13)    新宿松竹座(松竹封切)

 ・1929年(昭和4)      新歌舞伎座(実演劇と映画上映を兼用。1934年に新宿第一劇場に改称)

  同年                新宿劇場(大都※封切)※戦前に存在していた映画会社

 ・1931年(昭和6)      帝都座(日活封切)

  同年                新宿帝国館(新興キネマ※封切)※戦前に存在していた映画会社

  同年                新宿座(ムーランルージュ新宿座として演劇と兼用)

 ・1932年(昭和7)      新宿昭和館(洋画系2番館)

 ・1935年(昭和10)    新宿大東京(新興キネマ封切。1938年に新新宿東宝映画劇場に改称)

 ・1937年(昭和12)    朝日ニュース劇場(ニュース・漫画・科学短編)

  同年              新宿映画劇場(東宝系文化ニュース。戦後に新宿文化劇場となる)

  同年              光音座(名画・ニュース)

 ・1938年(昭和13)    新宿太陽座(名画・短編・ニュース)

 

▽写真:松竹館、大東京などが立ち並ぶ明治通り沿いの映画館街(新宿歴史博物館所蔵)

 

 この頃、日本の映画は黎明期であった。1912年(大正元)に初の映画会社である日本活動写真(日活)が創業しており、1920年(大正9)には松竹が蒲田行進曲で有名になった松竹蒲田撮影所を開設した。テレビはなくラジオも家庭に行き渡っていない時代に、映画は庶民の新たな娯楽として熱狂的に受け入れられ、新宿が繁華街として発展する追い風となった。当時の映画の中心地は浅草であったが、新宿はこれをしのぐ勢いで映画館の街としても発展していった。映画館も新宿の賑わいの主役だったといえる。 

 

▽写真:戦前まで新宿東口にあった映画館の場所(新宿歴史博物館提供)

 

特に洋画を上映していた武蔵野館は、新宿の文化形成に寄与する存在となっていった。まだ庶民が海外の様子を知る手段が少ない時代に、映画は欧米の人々や街・生活・文化と接する貴重な機会であり、スクリーンの中の洗練されたシーンに心を躍らせていた。また、開館当時は無声映画の時代で場面説明やセリフを代弁する弁士がいた。さらに演出の音楽も館内でオーケストラなどが演奏しており、クラシックや西洋音楽の生演奏を聴く数少ない機会でもあった。

 

▽写真:武蔵野館(写真は昭和30年代)と帝都座(新宿歴史博物館所蔵)

  

 

 

■演劇と寄席の話

 演劇や寄席も庶民に人気の娯楽であった。

 武蔵野館とともに新宿のシンボルとなっていた建物が1931年(昭和6)に開館したムーランルージュである。名前はパリのモンマルトルにある名物キャバレーの名を借用したもので、屋根の上には赤い風車も備えていた。風刺やウィットに富んだコメディや粋なバラエティショーが売りで、サラリーマンや学生、インテリ層から熱狂的な支持を得て新宿の娯楽文化を象徴する施設となった。ムーランルージュとして名を馳せたが正式名称は新宿座で、時期によっては映画も上映していた。

 

▽写真:ムーランルージュ新宿座(新宿歴史博物館所蔵)

 

 新宿第一劇場も人気の演劇場であった。これは元々1929年(昭和4)松竹が山の手でも歌舞伎を上演しようとして建設した新歌舞伎座で、歌舞伎以外も新劇なども上演したが、伝統的な歌舞伎は新宿の水に合わなかったらしく、5年後に松竹少女歌劇団の本拠としてリニューアルしたものである。

 明治期から今日まで続いている寄席の末廣亭は1921年(大正10)に新宿3丁目の現在地に移転したもので、当時は講談色物を特徴として人気を誇っていたらしい。現在も上野の鈴本とともに高い人気を得ており、東京の寄席の伝統を守っている。

 

■さまざまなレイヤーが複雑に絡む新宿の文化性

 都市形成の出発点の多くが交通の利便性にあり、人や物が往来して留まる場所に賑わいが生まれ街として発達する。江戸時代に町民経済が発達した背景には街道や海・川の水運ルートが整備されたことがある。明治以降の新宿も官営鉄道をはじめ路面電車や郊外私鉄が急速に発展し、たまたま新宿が交通の結節点となって街の骨格を作った。人が集まる条件が整うことで商業施設や娯楽施設ができ、ますます人が集まる。デパートや映画館の横道には飲食店やカフェが次々とでき、さらにその奥に風俗街が重なることで、新宿は昼の顔と夜の顔の2面性を備えた重層的な街になった。さまざまなレイヤーが複雑に重なり合う中に、当時としては新鮮だった欧米の文化が注入されることで新しい文化が生まれ、東京で最も刺激的な街へと変貌し巨大化していった。

 新宿は渋谷や池袋とともに、この時代に出現したターミナル型都市の典型と言えるが、新宿がこれだけ巨大で複雑な街となったのには歴史的な布石がある。新宿が持つ特異性は発展が駅前を中心に拡大していないことで、繁華街の中心は新宿追分であった。新宿駅の乗降客が増え続けても江戸時代から続く新宿追分の賑わいは衰えることなく、むしろ時代とともに増していった。その地に建つ伊勢丹が今も新宿で不動のポジションを有していることが、そのことを示している。

 その後の発展は新しいエリアの駅前と古いエリアの追分が新宿通り(旧青梅街道)で繋がることで一体化し、それが大きな背骨となって、賑わいが面で広がることを可能にし巨大な街が形成されたと考えられる。新宿通りも震災前までは生業を営む普通の商店が並ぶ通りだったが、発展とともに地価が高騰したため、旧来の店は撤退を余儀なくされ、大資本による出店か、新しさを提供できる店だけが生き残っていった。そのため新宿は常に新しいものが流入する新陳代謝の激しい街となった。そういった新宿を消費者として支え文化の創出を促したのは、新たな中産階級であるサラリーマンや学生・文化人などで、時代を敏感に感じ取り貪欲に生活行動に取り込んでいった当時のトレンドセッター達であった。

 

 

今回の新宿のはなしコラムは、以上です。

いかがでしたでしょうか。

今なお発展を続ける、日本随一の繁華街である新宿の東口の成り立ち、歴史を知ることで積み重ねた都市の年輪を感じることが出来るのでは無いでしょうか。

次回は、いよいよ東口とはまた違った発展の仕方をしている「新宿西口」の話になります。

ご期待ください。

 

 

<参考文献>

・「新宿区史」(区成立50周年記念)/新宿区/1998年

・「新宿学」 戸沼幸一編著/紀伊國屋書店/2013年

・「新宿・街づくり物語」/勝田三良監修・河村茂著/鹿島出版会/1999年

・「東京のれきし 道路・鉄道、まちづくり編」/双葉社/2014年

・「新宿歴史博物館 常設展示図録 新宿の歴史と文化」/新宿歴史博物館編・発行/2013年

・「キネマの楽しみ-新宿武蔵野館の黄金時代-」/新宿歴史博物館編・発行/1992年

 

<参考サイト>

・新宿区「新宿区史年表」

http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/

・新宿区立歴史博物館

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

・新宿大通商店街振興組合「新宿大通りの歴史」

https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_fr1_000037.html

・新宿中村屋「会社概要・沿革」

https://www.nakamuraya.co.jp/company/info/about.html

・新宿高野「歴史」

https://takano.jp/takano/company/history/

・紀伊國屋書店「歴史・沿革」

https://www.nakamuraya.co.jp/company/info/about.html

・三越伊勢丹プロパティ・デザイン「三越・伊勢丹の歴史」

http://www.impd.co.jp/library/im-history.html

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