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新宿歴史コラム vol.7 新宿駅西口の開発と発展(戦前)

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WRITER: 深井 正宏

 

新宿歴史コラムvol.6はこちらをご覧ください。

 

. 【新宿駅西口の開発と発展(戦前)

 

 新宿駅の西口と東口では駅前から拡がる街の様相が大きく異なっている。多数の商業施設群と巨大な歓楽街によって形作られる東口に対して、西口は超高層ビルが林立するオフィス街である。

 新宿で建設された最初の超高層ビルは1971年(昭和46)に開業した京王プラザホテル(47階、170m)で、その3年前に開業した日本初の超高層ビルである霞が関ビル(36階、147m)を抜いて、日本一の高層建築となった。以降、次々と超高層ビルが建設され現在の摩天楼のような景観がつくられた。

 それでは、それ以前の西口はどのような場所だったのか、現在に至るまでの経緯を追ってみたい。

 

■江戸時代までは農村地帯

 明治時代の初期まで現在の西新宿駅周辺は角筈村および柏木村と呼ばれた村落だった。

新宿を知る人は、駅を挟んで東口エリアと西口エリアとに2分されているイメージを持っている方も多いであろうが、この姿は山手線が開通して以降の事で、それまでこのような区分は存在しない。

 角筈村は北の青梅街道と南の甲州街道の間に挟まれ、西端は熊野神社がある十二社通り付近、東端は追分付近、内藤新宿の手前あたりまでのエリアである。青梅街道を超えて北側が柏木村だったが、角筈も柏木も行政名としては現存していない。当時の両村には武家屋敷や町屋、寺社などもあったが、ほとんどが農地で田畑が拡がっていた。

 江戸と甲州を結ぶ主要街道(甲州街道・青梅街道)に面していたため、農村地域とはいっても人の往来もあり、旅人向けの店や米問屋などが街道沿いに点在していた。また大消費地である江戸の近郊という立地から、街道を通じて運ばれる穀物等の集積地であるとともに、多くの商業作物も生産されていたと考えられ、そういった点からは比較的豊かな農村地帯だったと推測される。

 

▽写真:角筈村の地図(新宿歴史博物館「常設展示解説シート(14)角筈村」より転載)

 

 

 

■戦前の西口風景

 農村だった新宿が変わっていくのは山手線が開通して新宿駅ができてからである。東口エリアは当初はゆっくりではあるが徐々に商店ができるようになり、関東大震災以降に劇的な発展を遂げたのは以前に記したとおりである。

 これに対して西口エリアは様相が異なる。専売局のたばこ工場や六桜社(後の小西六、現コニカミノルタ)の工場、ガスタンク(現東京ガス)などが建設され、農村地域から少しずつ準工業地域へと姿を変えていった。また、精華学園(後に内村鑑三も校長を務め、美空ひばりや吉永小百合など著名な芸能人を多く輩出したことでも知られる。後に東海大学の付属高校となり学校法人としては現存しない)が、1883年に“女子独立学校”として開校すると、その後、女子学院、日本中学、東京女子大、工学院など多くの学校が建設され学園地域としての一面も見せていった。工場も学校も、駅から近く交通の便が良い上に広い土地を確保しやすかっためである。新宿駅は、これらの工場で働く勤労者や学生たちの利用に支えられた駅でもあった。

 

▽写真:小西六写真工業KK正門(新宿歴史博物館所蔵)昭和38年の撮影

 

 

 しかし震災後に東口エリアが繁華街として劇的に発展したのに対し、西口エリアの発展は大きく遅れていた。発展の障害となったのが淀橋浄水場とたばこ工場である。

 淀橋浄水場は玉川上水の水を浄化して東京市中へ安全な水道水を提供するために建設された施設で1898年(明治31)から稼働していた。その広さは約34万㎡以上に及ぶ広大なものであり、現在の高層ビル群は、その跡地に建設されたものである。一方、たばこ工場は1910年(明治43)に銀座から移転して建設された専売局淀橋煙草製造所で、現在の小田急ハルクから南側へ西口広場の大半を占め、3万3千㎡と浄水場に次ぐ広さを有していた。

 戦後になって新宿副都心計画が発表されたのは1960年(昭和35)で、浄水場が廃止されたのは1965年(昭和40年)である。

しかし、戦後まで西口の開発は計画されなかったのかというと、そのような事はなく、戦前にも再開発プロジェクトは存在した。

 

■戦前に計画されていたシビックセンター構想

 そもそも新宿の発展は当時の東京市域の拡大に起因しており、その流れは西口にも及んで来ていた。

おのずと西口駅前開発への要望も高まり、1924年(大正13)には東京市議会で浄水場移転の質問書が提出された。

この3年後には西口を起点駅とする小田急線が開通するなど、郊外私鉄の開業・発展とともに沿線の住宅地開発が進み始めた時期である。

1932年(昭和7)には、東京市水道局が水道拡張計画の中で浄水場の移転方針を示し、同じ時期に専売局たばこ工場も、震災の被害と敷地の不足を理由に移転を計画。

1936年(昭和11)に移転した。

 これらを受け、1934年(昭和9年)内務省都市計画東京地方委員会により新宿駅西口の開発が「新宿駅付近広場及街路」計画として決定された。

 この西口の駅前広場計画は、広場、街路と建築敷地造成を含んだ極めて近代的な総合都市開発事業で、川村茂著「新宿・街づくり物語」ではその特徴として

 ①鉄道施設と駅前広場そして街路とを一体的に計画する総合的な交通施設整備の計画であったこと。

 ②地下に鉄道の総合ターミナル施設をつくるとともに、これとの連絡をよくするため、地上と地下に立体的な交通広場を配置するなど、新宿駅の都市交通問題の一挙解決をめざす、画期的な内容をもった計画であったこと

 ③都市基盤施設整備と同時に建築物のコントロール(形態規制・高度利用)もあわせて一体的に行う、新しいタイプの都市計画事業であったこと

 ④超過収用方式(公共事業の施行にとって必要とする以上に土地を買収すること)を導入し、開発利益の公共還元を目指した計画であったこと

などをあげている。

 交通網の総合ターミナル化と近代的なビル建設を重点とし、シビックセンターの形成を企図されたものであり、80年以上前に立案された計画とは思えないほどの先進性である。

実際にこの開発計画は、戦後の新宿副都心計画のルーツとされ多大な影響を及ぼした。

この計画には建物の高さ制限が設けられているが、これは低い建物を建ててはいけないという“低さ制限”によって高度利用を目的とした規定で、戦後に建設された高層建築群につながるものである。

交通の総合ターミナル化は開発の中心であったが戦争のために実現できなかった。

しかし戦時下の電力不足によって電圧が低下したため、京王電車が南口の甲州街道の陸橋を登れなくなったことから、緊急事態として小田急線新宿駅の横に新しい駅が急遽つくられた。

これが現在の京王線新宿駅となり、結果的に新宿駅の鉄道一体化が進むこととなった。

この開発計画は実際に着工され途中まで順調に工事が進んだが、1941年(昭和16)戦争の激化によって中止となった。

 

 

今回の新宿のはなしコラムは、以上です。

いかがでしたでしょうか。

西口は準工業地帯として発展する中で、東口とは大きく異なる道筋を辿りながら発展を遂げてきたことがお分かり頂けたのではないでしょうか。

是非前回コラムの新宿の東口の成り立ちもご覧になりながら参考にして頂ければと思います。

次回は、「新宿西口」の戦後の発展に関してのお話になります。

ご期待ください。

 

 

<参考文献>

・「新宿区史」(区成立50周年記念)/新宿区/1998年

・「新宿学」 戸沼幸一編著/紀伊國屋書店/2013年

・「新宿・街づくり物語」/勝田三良監修・河村茂著/鹿島出版会/1999年

・「西新宿物語」岡本昭一郎編著/日本水道新聞社/1997年

・「みる・よむ・あるく東京の歴史・通史編3」/吉川弘文館/2017年

 

<参考サイト>

・新宿区「新宿区史年表」

http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/

・新宿区立歴史博物館

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

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