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新宿歴史コラム vol.8 新宿駅西口の開発と発展(戦後)

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WRITER: 深井 正宏

 

新宿歴史コラムvol.7はこちらをご覧ください。

 

. 【新宿駅西口の開発と発展(戦後)

 

■動き始めた西口開発

 戦争が終結し新宿も復興が進んで経済活動が落ち着いてくると、地元から淀橋浄水場の移転を要望する声が上がってくる。1954年(昭和29)に新宿区議会が中心となって「新宿区総合発展計画促進会」が発足した。この促進会は新宿区の将来へ向けた開発促進を目的として結成された組織で、公民一体となって運動が展開された。その中で地下鉄の敷設、新宿駅舎の改造、淀橋浄水場の移転などについて東京都に対して請願を提出している。新宿区の運動が功を奏したかは不明だが、東京都も動き出し1957年(昭和32)に都議会で「淀橋浄水場移転促進に関する請願」が決議された。

 

▽写真:開発前の新宿駅西口前(新宿歴史博物館所蔵)昭和30年頃撮影・左に思い出横丁、右に小田急線新宿駅、遠方に伊勢丹と三越が見える

 

 

 翌1958年(昭和33)に総理府の外局である首都圏整備委員会(1956年に設置され建設大臣が委員長を兼務)が首都圏整備計画を策定し、新宿・渋谷・池袋の3地区を副都心として定めた。その背景には都心部の拡大があり、これ対して広域的な対応が必要との観点から東京の再編戦略として構想されたものである。政府主導による首都圏整備計画は新宿駅西口の開発を推し進める大きな基盤となった。これを受けて東京都では1960年(昭和35)に基本方針を定め、さらに都市計画事業(新宿副都心計画)の計画決定を行なった。

 

 この新宿副都心計画の概要は

 ①千代田・港・中央の都心3区に集中した都市機能を分散・緩和することを目的とし、新宿地区にビジネスセンターとして副都心を建設する

 ②甲州街道・青梅街道・十二社に通りに囲まれた総面積約96ヘクタールの区域を開発の対象とする

 ③淀橋浄水場跡地を中心とする約56ヘクタールの区域については、昭和35年度~昭和42年度完成予定で緊急に整備する

 ④街路・公園・広場等の公共施設および宅地造成を東京都と新宿副都心建設公社の2者で実施する(筆者注※ここでいう宅地は住宅ではなくオフィス等の事業用地を指す)

という内容であった。(新宿区「新宿史」より抜粋)

 浄水場の移転が決定されるとともに事業執行の中心となる「財団法人新宿副都心建設公社」が設立された。これによって新宿副都心計画は具体的に動き始めることになる。5年後の1965年(昭和40)に、開設以来75年にわたって東京市内に水を提供し続けた淀橋浄水場は閉鎖され東村山へ移転した。

 

▽写真:淀橋浄水場(新宿歴史博物館所蔵)昭和39年撮影

 

 

■副都心計画の要だった西口広場

 新宿副都心建設公社が実施した対象事業は、新宿駅西口広場の整備、街路整備、新宿中央公園の整備、業務街区造成等だが、中でも副都心計画の要となっていたのが新宿駅西口広場の整備事業である。

 駅前の交通処理能力を高め高度利用するために、世界的にも類のない立体的な駅前広場が計画された。計画の根幹となる考え方は、歩行者と車を分離しつつターミナルとして効率的な移動・連絡を可能にすることである。その結果生まれたのが、地上と地下の二層構造を持ち、さらにペデストリアンデッキを加えて三層構造となる現在見ることのできる駅前広場であった。

 地上広場は主にバス乗り場として一般の自動車交通路にあてられ、地下広場は各鉄道やタクシーを含めたさまざまな交通機関間を利用する歩行者の相互移動のためのスペースとして、また新たにできる業務街区と駅前・駅地下などの商業施設との連絡通路としてあてられた。この地下広場にも自動車が入れるようにしたことは画期的な計画であった。地上二階にはペデストリアンデッキを設けて歩行者の流れを円滑にさせる構造とし、さらに三層構造の下の地下二階部分には大きな公共駐車場がつくられた。地下駐車場も含めてこのように立体化されたのは、急速に高まりつつあったモータリゼーションを背景に、限られた面積の中で交通量の増加に対応する必要があったからである。

 

■建設公社・小田急電鉄・坂倉準三

 1961年に国鉄・小田急・京王・営団地下鉄の間で四者協定が締結された。100万人を超える乗降客が集まっていた新宿駅西口において各交通機関利用者の円滑な相互移動のためには、各事業者が共有するコンコースを協力してつくる必要があったからである。この協定によって複雑な土地の権利関係を障害とせず、また東京都・建設公社を含めて公民一体となった体制が成立し、西口広場開発における多くの課題を解決させていった。

 東京都は新宿副都心建設公社に西口広場建設の特許を小田急電鉄に与えた。小田急電鉄が特許を得た背景には、副都心計画に先立つ1951年に地下駐車場と地下道の建設許可を東京都に申請し、また既に小田急ビル(現小田急百貨店本館)と西口開発の構想を坂倉準三建築事務所の協力を得て進めていたという事情がある。建設公社は西口広場事業を、設計も含めて全面的に小田急電鉄に委託することになった。

 小田急電鉄が西口広場の設計監理を坂倉準三建築事務所に託したことで、結果的に西口広場、地下駐車場と既に設計の進んでいた小田急ビルを合わせて、西口駅前開発全体が統合されることになり、坂倉準三氏による一体的な設計が行われることとなった。

 

▽写真:建設中の新宿駅西口広場(新宿歴史博物館所蔵)昭和41年撮影

 

 

 駅前開発は公共事業であるが、これを民間事業者である小田急電鉄が担った点に特殊性があった。公共事業なので営利性がないため、広場の開発は、付随する地下街の店舗設置と営業権が抱き合わせとなる形で計画された。この地下街が現在の小田急エースである。

 こうして計画された西口広場は、1964年(昭和39)に東京オリンピックの閉会を待って着工されると順調に工事が進み、1966年(昭和41)11月に完成した。また、1968年(昭和43)には浄水場跡地を中心とした街区造成が完了し、新宿中央公園も開園した。これらの一連の工事が完了したことによって、(財)新宿副都心建設公社は担当した事業を終了させ、同年に解散した。

 

▽写真:完成した西口広場のらせん状斜路

 

 

■超高層オフィス街の誕生

 一方、建設公社は淀橋浄水場跡地を中心にした副都心地域について、街区造成、街路・公園の整備のほか、甲州街道・青梅街道・十二社通りの拡幅などを実施した。造成した事業用地は11の街区に分けられ、1966年(昭和40)から始まった入札によって民間事業者に順次売却されていった。

 その頃の日本には高層建築がなかったが、それは技術的な問題ではなく、国内の建築物の高さが31mまでに制限されていたからである(丸の内にあった旧丸ビルはこの31m制限に従って建てられた建設当時の高度利用建築物である)。しかし1963年(昭和38)の建築基準法改正により“絶対高さ制限”が撤廃され、地域ごとに容積を規定する“容積地区制”が導入された。これによって特定の地域ではビルを高層化することが可能となり、1968年(昭和43)に霞が関ビル(高さ147m)がこの制度の最初の適用事例として建設された。

 西新宿地区では1965年(昭和40)に容積率1000%の建設が認められると、京王プラザホテル(179m、47階建て)が最初の超高層ビルとして建設され、1971年(昭和46)に開業した。

 

▽写真:建設中の京王プラザホテル(新宿歴史博物館所蔵)昭和45年撮影

 

 

 私たちにとって「新宿副都心=超高層オフィス街」というイメージが強く、新宿副都心の開発計画が超高層ビル建築を前提としていたように思いがちだが、高度計画という狙いはあったものの計画当初から超高層オフィス街として整備するという方針があったわけではない。しかし事業用地を購入した企業にとっては、限りある土地面積に対して容積率が高いほど事業上優位であるため、高層化を求めるのは当然のことである。一方、当時の日本には超高層オフィス街の開発や運用経験はなく、様々な面で未知の領域であった。そのため各街区を各企業が購入した後も、副都心地区の街づくりをどのように進めるかという課題の模索は続いた。

 これを解決する組織として1968年(昭和43)に、小田急、京王、住友不動産、第一生命、三井不動産の5社によって「新宿新都心協議会(略称SSK)」が発足し、これに街区を購入した所有企業が順次加わっていった。現在ではこのような会議体は珍しくないが、当時としては画期的な組織であった。同協議会で街づくりに関する議論が進められ、容積率1000%以下、空地率30%以上、高さ250m以内などの建築条件が定められ、各街区所有者間で協定として結ばれた。この協定に沿って、新宿住友ビル、KDDビル、新宿三井ビル(以上1974年)、安田海上火災ビル(以上1976年)などが建設され、1970年代から1980年代にかけて次々と超高層ビルが建設されていった。また、整備街区以外の周辺地区にも再開発が波及し、南に隣接するワシントンホテルや北側に隣接するヒルトンホテルなどが建設されるようになった。

 そして、最後まで着工されずに残っていた3つの街区に、1990年(平成2)東京都庁舎が建設されたことで現在の西新宿の姿が出来上がったのである。

 

▽写真:建設中の都庁舎(新宿歴史博物館所蔵)平成元年撮影・設計は建築家の故丹下健三氏

 

 

今回の新宿のはなしコラムは、以上です。

いかがでしたでしょうか。

今回は戦後の副都心の開発に焦点を当ててお伝えしてきましたが、建築当時は世界の最先端技術を投じた高層ビル群も、すでに半世紀が経過し過去の建築物となりつつあります。

それでも見上げると開発当時に関わった多くの人たちの情熱や時代の勢いを感じますね。

これまで新宿の誕生から300年あまりの歴史を追ってきましたが、それぞれの時代にさまざまな人によって積み重ねられてきた歴史を知ると、ドラマチックで濃密な時の流れを感じます。

次回はそんな300年を振り返りつつ、新宿とは何だろうというテーマを総括して終章にしたいと思います。

ご期待ください。

 

 

<参考文献>

・「新宿区史」(区成立50周年記念)/新宿区/1998年

・「新宿学」 戸沼幸一編著/紀伊國屋書店/2013年

・「新宿・街づくり物語」/勝田三良監修・河村茂著/鹿島出版会/1999年

・「西新宿物語」岡本昭一郎編著/日本水道新聞社/1997年

・「みる・よむ・あるく東京の歴史・通史編3」/吉川弘文館/2017年

・「坂倉準三の都市デザイン・新宿駅西口広場」新宿駅西口広場建設記録刊行会編著/鹿島出版会/2017年

・「小田急75年史」小田急電鉄編集/小田急電鉄/2003年

 

<参考サイト>

・新宿区「新宿区史年表」

http://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/70kinenshi/

・新宿区立歴史博物館

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/

・小田急電鉄「企業情報/略年表」

https://www.odakyu.jp/company/history/

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